<神戸からのレポート>

震災で家や店を無くした人が、

1年目にやっと店を出し、2年目でまた無くす。

そして3度目の冬、冷たい風がますます強く吹くばかりです。

日本機関紙協会兵庫県本部事務局長 

畦布 哲志(あぜふ てつし)


 1995年1月17日、午前5時46分に発生した兵庫県南部地震に始まり、防災対策の不備によって引き起こされた「阪神・淡路大震災」は、6000人以上の尊い人命を奪い、近代都市を一瞬にして瓦礫の街に変えてしまいました。

 あれから2年、3度目の冬が来ました。いまなお、数十万人もの人たちが生活再建の目途も立たず、明日への希望も見いだせないまま苦しい日々を送っています。

何とかせねば!の思いでのりきった震災1年目

 神戸市須磨区で、「千歳地区まちづくり協議会」の世話役をしている今井紀子さん(52才)は、「街づくりの中では解決のできないことばかり」と、次のように話します。

 「私たちの地区でも、長引けば長引くほど生活苦が重くのしかかり、土地を手放す人がチラホラでてきています。仮設に入っている年金受給の人も、『今は生活してるけど家賃を払うようになったら生活できるやろうか』と言う人。『土地はあっても自宅再建の費用がない』と言う人。借金をするにも『年齢が問題!思い切って土地を売って、子供と一緒に住みたいけど話し合いがつかない』と悩む人。『老人ホームに入りたいけど、満員で入れない』とつら(辛)がる人。被災者の苦しみを直に感じる私たちは、とてもつらい毎日です。だれに訴えたらいいのか、疲れました。」

 「震災1年目は、それでも皆さんの気持ちの中に、それなりの活気がみなぎっていました。何とかせねば!そんな思いを互いの肌で感じ合っていたように思います。」

 「露店の店が一つでき、また一つでき、仮設の食べ物屋さんが一軒、一軒でき、テレビやラジオ、新聞などホットニュースでその姿を伝えていました。瓦礫の撤去、ビルの解体、街には人の波があふれ、どの店も大繁盛。『この後でかならず建築ブームがくる、むこう10年神戸では仕事の切れることはないだろう』と言われました。復旧人口が増えるにつれ、小売業者も飲食業者も、一気に活気づいたように見えましたが、それもつかの間の夢でした。」 「高速道路の復旧工事が始まった途端、ご存じの交通マヒです。あれだけ多かった県外業者の姿も今ではほとんど見ません。道路を走る車も神戸ナンバーばかりになり、勢い込んで自力再建した店も一つ消え、二つ消え、街を行き交う住民の姿も消え、自宅跡を見に帰っていた人の姿すら、ほとんど見かけなくなりました。」

多額の借金で、家業を再建したが震災2年目から受注が激減

 今井紀子さんは震災前、須磨千歳地区でケミカルシューズの下請け縫製業を営んでいました。ご主人の今井敏彦さん(55才)はサラリーマンで住設機器の販売会社に勤務していました。

 震災直後に今井一家が持ち出した物は、貴重品の入った袋一つ、肌着一組づつ、布団一枚、毛布三枚、車一台だけ。無くした物は、家と生活用品すべて、家業の機械一式。全焼したそうです。

 避難所生活をしたのはいうまでもありません。家業の再建はあきらめていました。気持ちは焦っていましたが、頭の中は空っぽで、何をするともなく、毎日瓦礫の中で、ボーッと立ち尽くす日々。そこかしこに、同じような人がいたそうです。

 何日か経って、「いつまでこんなことをしてんのやろ?自力で頑張らんと自分が駄目になる。」と、思ったそうです。

 それからは、その時々を必死に考え、地域の復興、住民の連絡先の確認、家業の再開、我が家の再建、地域の人や街づくりをすすめる周りの人たちと励まし合い、意見を出し合い、一体になって苦しみを乗り切ることで、自分を鞭打ち前進する気力をやしない、思い悩んで落ち込むこともなく、息つく間のない毎日だったそうです。

 そして、地震から半年で自宅再建と家業の再開。「聞こえはいいのですが、これが大きな借金の山、その重いことといったらありません。それでも、1年目は受注の波が押し寄せて、元の従業員も職場復帰、残業もする有様。10年返済で借りた被災者用特別融資もこの分なら大丈夫。そう思って迎えた2年目、春から受注は無し。おまけに主人も、勤めていた会社が営業不振になりクビになりました。再就職するにも求人がありません。従業員の給料をカットするわけにもいかず、とりあえず時間短縮。今は主人がアルバイトでタクシーの運転手をして急場をしのいでいます。が、今後のメドは全く立っていません。」と、震災後の自己体験を話す今井紀子さん。

 これは、特殊な例ではありません。いまだに営業再開できていない自営業者は3000人(軒)。苦労して再開した自営業者の大多数が「砂漠のど真ん中で店を開いているみたいで、売上は震災前の半分。再開用の借入金も、震災特例で返済据え置き期間中だから何とかなっているが、返済が始まったら生活もできなくなる。」と、メドの立たない状況を嘆いています。

 住民が元の街に戻らない限り、この事態は打開できません。

 年齢が比較的若く、自宅再建費用を調達できた人たちの多くが二重ローンで苦しみ、市街地の賃貸住宅の居住者は家賃が大幅アップして生活は大変です。しかし、「仮設住宅や県外に避難している被災者にくらべたら、自分たちは恵まれている」という思いで諦めているのです。

 高速道路や港などの、予定よりも早い復旧の影で、孤独死は遂に100 人を超えました。生活苦からの自殺者も後を経ちません。

 これが、阪神・淡路大震災から2年も経った被災地の一般市民の生活実態です。

 「復旧は終わった、これからは復興だ」といえるのは震災でボロ儲けした大企業だけ、一般市民はまだまだ救援が必要です。

日本国憲法の理想「恒久平和」は全人類の生存権を守り、保障すること

 日本機関紙協会兵庫県本部は、「憲法を守り、くらしに活かす活動を積極的にすすめる」方針の具体化として、阪神・淡路大震災救援・復興の運動に参加してきました。

 1997年は日本国憲法施行50年の記念すべき年です。日本国憲法はその前文で、『われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。』とあります。そこでは、全人類の「生存権を守り、保障する」ために『恒久の平和を念願し』ていることが全世界への誓いとして発せられているのです。

 前文の理想を実現するための具体策として、日本国憲法の各条文は定められており、第9条の『戦争放棄、軍備交戦権の否認』では、生存を脅かす人間の仕業「戦争」を否定、第25条の『生存権、国の社会的使命』では、「国民には健康で文化的な最低限度の生活をする権利があり、国にはそれを保障する使命がある」ことなどが明記されていると私(畦布)は理解しています。 日本国憲法は、「生存権を守り、保障することを基調に全体が構成されている」のです。阪神・淡路大震災被災者の「公的支援要求」は憲法に保障された当然の権利ですし、国はそれに応える義務と責任があるのです。

被災地の実態と教訓を全国へ―機関誌協会兵庫からの提言

 地震列島日本の防災対策のいい加減さ、被災住民への救済策のなさ、この国の政治の貧困さ、住民無視・大企業本位の実態が改めて浮きぼりになった2年間でした。

 阪神・淡路大震災直後の「はり紙・口コミ」に代表されるように「安否情報や生活情報」の多くを伝えたのは機関紙・ミニコミでした。

 マスコミの大々的な被害報道と、各団体などの機関紙による組織的でキメ細かな宣伝で、まさに地球的規模で支援の輪が拡り、被災地住民を励まし、震災1年を「何とかせねば!」の思いで乗り切りました。

 「マスコミ」「機関紙・ミニコミ」のどちらも情報提供に必要なメディアですが、その役割には違いがあることも阪神・淡路大震災で確認できました。

 はり紙や口コミによって数少ない生活情報を「交換・共有」することで隣近所・仲間同士の一体感(連帯感)が強まりました。「協力・共同」の大切さを実体験したのですが、震災直後の混乱状況の中で自然発生的に生まれた「協力・共同の関係」は、時間が経過し、状況が落ち着くにつれて、「被害の状況や個人的利害、主義・主張の違いによって簡単に崩れる」というもろいものでした。

 この弱点を補い、被災者を励まし、生きる希望を持たせる情報を提供することが私たちに課せられた使命です。

 住民の生活再建を実現するために、住民の立場からの大々的な世論喚起が必要です。そのためには、物事を、常に弱者の視点でとらえ、考え、報道をつづけるジャーナリストとメディアが必要です。

「何のために税金は納めるのですか?私たちはこんな日のために、ずーっと税金を納めてきたはずです。個人個人がお互いに支えあい、日本の経済を安定させるために納め続けてきたはずです。

 阪神・淡路大震災被災者に、国の温かい支援を願わずにはおれません。どうかこの現状をよく理解して下さい。そして税金は、国民が納得のいく正しいことに使ってください。

 私たちはこの苦しい中でも、税金は納め続けています。」

 これは、今井紀子さんの怒りを込めた悲痛な願いです。被災者すべての声を代弁していると言っても過言ではありません。

 神戸商大の菊本義治教授は「被災者の生活再建のための公的支援は、社会的不公平を無くすためであり、数十万人という被災者の数自体に公共性があり、もはや個人の問題ではない。」と話しています。国や自治体にヤル気があれば、直ぐにできることです。

 全国のジャーナリストの良心を信頼し、期待を込めて、阪神・淡路大震災から2年、3度目の冬の神戸からレポートします。

(1997年1月記)